シジフォス

アクセスカウンタ

zoom RSS 体験者に代わって訴え続けたい「東京大空襲」

<<   作成日時 : 2017/03/06 06:17   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

「再び許すな東京大空襲」と訴えた下町反戦の運動は今年で35年になる。昨日も路地裏平和行進を行ったが、昨年まで参加していた橋本代志子さんら体験者や仲間たちに旅立たれた寂しさを痛感した。そして50人ほどの参加者の平均年齢は70歳を超えている。発足時に、早乙女勝元さんが提案したスローガンのひとつに「次の世代に平和のバトンを渡す」というものがあった。20年以上続けてきた空襲展やパネル展示は、若い世代にジェノサイドであった3月10日の下町空襲を知ってもらうためだった。体験者は自らの悲惨な思い出など語りたくはなかったが、その多くは後世に伝えるために初めて重たい口を開いた。

下町反戦の運動は、労働組合が取り組んだ「市民運動」だった。自分たち戦後世代の組合員が、親からも知らされなかった東京大空襲を学ぶことから始まり、すべての市民に参加を促した。当時はまだ発行されていた文化人名簿などを基に、1万人近く賛同の呼びかけを発送した。第1回は浅草国際劇場を5千人で満員にし、翌年は蔵前国技館を1万人で埋めた。当時はメディアも東京大空襲などをよく知らず、大きく報じてくれた。東京都も3月10日を「平和の日」と定め、全国で空襲を記録する作業が開始された。

あの運動は「地区労」が支えたといえる。下町7区の地区労オルグは、新しいことが大好きで、それが活性化の原点だった。原資が必要であれば東京地評や総評から援助をもらい、活動家は団塊の世代が豊富にいて、争議組合の披解雇者も多数協力してくれた。労働組合員といっても、下町で働き住む市民であり、市民視点で平和を訴えた。普段は家で会話が無かった両親が、東京大空襲のビラを読んで、自分の体験を初めて語り、集会に参加してくれたとの声を多く聞いた。

あれから35年…継続はしているが悩む。そのまま年月が経ち、参加者は老いている。「反省」ばかりが胸を打つ。小さな記事だが、東京新聞の3/4に「松戸市の40歳以上孤独死218人 50歳以上は03年の2倍超」との記事が載っていた。「松戸市内で2016年に孤独死が確認された住民(40歳以上)は前年より40人増えて218人に上ったことが、市の調査で分かった」という。市は03年から調査を続けており、50歳以上は最多の191人で、03年の98人の2倍超となった。対象は一人暮らしの自宅で、病気などで誰にもみとられずに亡くなった場合で、自殺も含まれており、毎年増えている。22万世帯48万6千人の松戸市で、70代と80代の孤独死がいずれも55人いたというのは衝撃的だ。おそらくそれを遙かに超える高齢者が悲惨な境遇にある。

あらためて、恐るべき時代を生きつつあることを実感している。昨日の東京新聞の「こちら特報部」の欄には、共同通信が2/4に報じた<空襲被害の補償「今こそ」 法案提出へ>の内容が詳しく載っていた。<第2次世界大戦中に空襲に遭った民間人や、朝鮮半島や台湾出身の旧日本軍BC級戦犯への補償をそれぞれ定めた2法案が、今国会中に提出される見込みであることが4日、分かった。与野党の超党派による議員連盟の幹部を務める河村建夫衆院議員(自民)が明らかにした。空襲被害の補償法案は過去14回提出され、全て廃案になっている。戦後70年を超え、被害を訴えた生存者も高齢化。「空襲議連」関係者は「存命中に決着するには今しかない」と意気込む。河村氏は取材に「戦後処理の積み残しには国が対応すべきだ。今国会での成立を目指す」と語った。>(共同通信 2017.2.4)

この取り組みは、国の償いを意味する国家補償の立法を目指す被団協と、国家賠償訴訟で国の責任を追及している沖縄戦被害者の取り組みとも連動する。戦争の被害を全て等しく受忍しなければならないという国の「受忍論」を打ち破るべきであり、今に通じる。

東京大空襲について、今年は以下の資料を添付し終わる。それでも前に進みたい。

杉山千佐子さん死去 「痛み」の半生 平和思い国を批判(東京新聞 2016年9月19日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016091902000122.html
 太平洋戦争で負傷した民間人への補償を求める活動を続けた「全国戦災傷害者連絡会」会長の杉山千佐子(すぎやまちさこ)さんが十八日、老衰のため死去した。百一歳。岐阜市出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。
 一九四五年三月、名古屋空襲で負傷し左目を失った。元軍人・軍属には補償がある一方、民間戦傷者を救済する制度がないことに疑問を抱き、七二年に全国戦災傷害者連絡会を立ち上げた。
 補償を求めて国会への要請活動を積極的に展開、運動は全国に広がった。二〇一〇年、空襲被害者の救済の立法化を求める「全国空襲被害者連絡協議会」の顧問に就任した。
<評伝> 戦時中に空襲で死傷した民間人への補償を国に求め続けた杉山千佐子さんが、百一歳で亡くなった。安全保障関連法の成立から一年。戦争の悲惨さを知る杉山さんは、時計の針を戻すようにも見える国の動きに最期まで抵抗した。
 昨年七月、安保法案を審議する衆院の議員会館での集会で、杉山さんは「法案を通すなら、まず『一番弱い国民を守る』と一条入れてください」と訴えた。成立前日の昨年九月十八日には、本紙記者に「怖いですね。国民そっちのけで、自分たちの考えで突き進んでいく」と憤った。願いとは逆の方向に、日本が進んでいるように思えてならなかった。
 原点は、終戦が近づいていた一九四五年三月。名古屋市千種区の自宅近くで大型爆弾がさく裂した。杉山さんは防空壕(ごう)にいたが、爆風で顔がえぐれ、生き埋めに。「情けなくて、生きているかいがない」。左目を摘出、傷を負った自分の顔に、心はふさいだ。
 戦後三十年近くが過ぎたころ、旧軍人、軍属とその遺族らと同様に、民間戦傷者にも補償を施す援護法制定を求める運動を始め、同じ境遇の人たちと全国戦災傷害者連絡会をつくった。
 その運動でも、何度も傷ついた。「民間人は(軍人らと違い)国との雇用関係がなかった」などの理由で、生涯をかけた法制定は実現しなかった。「戦前、戦後と私はだまされてばっかり」。晩年は残った右目も視力を失った。
 それでも諦めなかったのは「援護法ができるまで、戦没者が浮かばれない」との思いからだ。願いは平和への思いにつながり、同じく多くの民間人が犠牲になった被爆地の広島と長崎に毎夏、足を運んだ。
 「他人の痛みは、自分がたくさん痛みを感じて知るもの」。戦禍と国の対応に何回も傷ついたからこそ、同じ苦しみを味わう人がもう出ないよう願った。
 「人と争わない平和な国にしてほしい。これからも、同じことを繰り返し訴えていく」。戦後七十年の昨年、そう語った。願いは国に届くだろうか。


>杉山千佐子が伝えたかったこと(にっぽんの旧聞 2016.9.20)
http://www.history-japan.info/2016/09/blog-post_20.html

東京大空襲で目にした一面の遺体「戦争で得るものは何もない」(THE PAGE 2016年8月16日)>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160816-00000004-wordleaf-soci
[写真]空襲で焼け野原になった東京(Wikimedia Commonsより)
 川は遺体で埋まり、電車の駅にも折り重なる犠牲者 ── 。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を通学途中に目撃した長野市の会社役員武井敏雄さん(86)=東京都出身=が15日、同市内で体験を語りました。「戦争で得るものは何もない」という訴えに、聴講した市民らがうなずいていました。
【写真】「東京大空襲」とはどんな空襲だったのか?
◆空がまさに燃えていた
 武井さんは1937(昭和12)年に家族と東京・日本橋から千葉県市川市に移転。B29の東京空襲が頻繁になり始めた1944(昭和19)年には旧制江戸川中学(現都立江戸川高)の3年生で、授業そっちのけで軍需工場の勤労動員で働く毎日でした。
 翌1945年の3月9日午後10時ごろ、警戒警報もなく突然の空襲警報があり、しばらくして自宅の外に出ると東京の空が真っ赤に。「空が赤いのではなく、空がまさに燃えていたのです。あんな空は見たことがない」。
 明けて3月10日朝、電車が止まっていたため自転車で学校へ。江戸川を越えて都内に向かうと、千葉街道は焼け出された人たちが千葉に向かって列をつくり、焦げた髪の毛や衣服のまま子どもの手を引いた母親などがやっとの状態で歩いていました。
 亀戸まで来ると、高架の亀戸駅のホーム上は焼け死んだ人たちが重なって山となるような状態。錦糸町、両国あたりでは焼け焦げた遺体が道路にいっぱいで、自転車は走れませんでした。「遺体は木の根っこのようになっていて、性別すら分からなかった」。
 錦糸町の木場の川には遺体がびっしりで、水面が見えないほど。防火用水も同様でした。東京を象徴する国技館も骨組みだけになっていました。
 あまりのことに帰宅しかけたところ、2人の兵士が遺体をトラックに投げ込んでいるところに遭遇。また、錦糸町では菓子の製造店の水あめが道路に流れ出ていて、一般人がそれを食べていたが、兵士たちも加わりました。そこへ憲兵が来て厳しく怒鳴りつけていました。
 後で聞いた話だと、隅田川をボートで逃げようとした人たちが、追いすがってボートに乗ろうとした人々の手を無理やりはずして乗せなかったと。「ボートが転覆することを恐れたのかもしれませんが」。
 こうした光景に、武井さんは「完全に日本は負けたと思いました。しかも焼け出された人々にはおにぎりどころかパンの1つも出なかった。国からの補償もなかった」。
◆戦争はペンを銃に替えた
 大空襲の後、中学4年生になった武井さんは父親の勧めで陸軍特別幹部候補生になり、浜松の航空隊へ。家族も食料不足などから長野県に疎開。そして8月の終戦を迎えました。
 「戦争は学校を軍事教練の場としてペンを銃に替えました。そして校舎を軍需工場に変えて子供たちを働かせ、自由を奪いました。2度とこのような過ちをしないようにしなければ」と武井さんは結びました。
 3月10日の東京大空襲は米軍爆撃機「B29」約300機による無差別爆撃で、死者は推定10万人、罹災者は100万人超。繰り返される空襲で東京の市街地の5割が失われたとされています。
 この日の集いは長野県北部を中心にした「自分史を綴(つづ)り語り継ぐ会」(細川順子事務局担当・会員50人)が毎年開いている「玉音放送と戦争体験を聞く集い」。今回は「戦時下の実相」をテーマに、武井さんのほかにシベリア抑留や戦時下の厳しい学校生活などを体験をした2人も講演しました。



月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
体験者に代わって訴え続けたい「東京大空襲」 シジフォス/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる