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zoom RSS 50年前沖縄のB52墜落大事件を忘れてはならない

<<   作成日時 : 2018/11/20 05:56  

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昨日11月19日は米軍嘉手納基地でB52戦略爆撃機が離陸に失敗、墜落した事件から50年の日だったという。住民ら16人が重軽傷を負い、周辺の住宅や学校など365件に窓ガラスが割れるなどの大きな被害を出したというが、自分の記憶にないことを猛省する。当時、ベトナム反戦を大きな契機とする大学紛争最盛期(?)であり、自分もそこに参加していたにも関わらず…。B52は65年7月28日、台風避難を理由に嘉手納基地に降り立ったという。もちろんB52はベトナムで絨毯爆撃を行っており、ベトナムでは「死の鳥」と呼ばれていた。そして朝鮮戦争とベトナム戦争に事実上参戦することによって日本は敗戦から復興を成し遂げ、異様な経済大国となった。しかし「嘉手納のB52常駐」に日本は反対も抗議もできなかった。

もちろん、日本のメディアはそんな50年前の歴史的事件など報じない。おそらく今さらというゴーンの逮捕に多大な報道がされていくだろう。多くの方が指摘されるだろうが、何故いま?の疑問が起きる。入管法改悪と対決する重要時期に突然…。都合が悪い事態になると関心を他に向けるために警察やメディアを利用する為政者お得意の常套手段の可能性も多分にある。そして今日も沖縄は「戦争」のど真ん中にあり続け、新たな軍事基地さえ自然を破壊しつくられようとしている。日本は戦後復興を成し遂げたかもしれないが、沖縄は戦前と変わっていないことを深く反省し、今朝は琉球新報の社説と特集を熟読したい。11月19日に何があったか、そして今も続いていることを刻みつけておく。

<社説>B52墜落から50年 命脅かす駐留許されない(琉球新報 2018年11月19日 )
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-836085.html
 1968年11月19日に米軍のB52戦略爆撃機が離陸に失敗し、嘉手納基地に墜落してから、きょうで50年を迎えた。その後も米軍機は墜落を繰り返している。県民の生命を危険にさらす環境は50年前も今も変わっていない。基地ある限り、同じ状況が続くのか。それを県民が引き受け続けるのはあまりに理不尽だ。
 7日前には南大東島の南西約140キロ沖にFA18戦闘攻撃機が墜落している。沖縄では72年の日本復帰から46年間で50機の米軍機が墜落した。年1回以上の頻度で、米軍機が空から落ちている。極めて異常ではないか。
 50年前に事故を起こしたB52は68年2月から嘉手納基地で常駐を開始した。当時、米国が戦争をしていたベトナムで絨毯(じゅうたん)爆撃を繰り返しており、多くの住民の命を奪った。このためベトナムでは「死の鳥」と呼ばれていた。
 事故当日も6機がベトナム出撃のため嘉手納基地を60秒間隔で離陸し、墜落したのは5機目の機体だった。20トンの爆弾を搭載していたため、墜落後、これらの爆弾も激しく爆発を繰り返した。
 沖縄から飛び立った爆撃機が当時、これらの爆弾をベトナムの人々に投下し続けた。あまりにも非人道的で残虐な行為だ。沖縄戦で肉親を奪われた住民は、やりきれない思いで出撃を見つめるほかなかった。
 地響きと爆風にさらされた近隣の住民は嘉手納基地がベトナム戦争の報復で攻撃を受けたと思った人もいた。住民4人が負傷し、民家159戸が被害を受けた。
 墜落事故は戦後の沖縄で連綿と続いた。59年にうるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落し、児童11人を含む18人が死亡した。61年にうるま市(旧具志川村)の川崎で米軍ジェット機が墜落し、住民2人が命を落とした。
 住民の死傷者こそ出なかったが、2004年には沖縄国際大学に米海兵隊のCH53D型ヘリが墜落し、16年には名護市安部の海岸に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが墜落した。
 墜落が起こるたび、米高官や軍幹部らは事故を過小評価する発言を繰り返してきた。B52墜落の後、国務省日本部長は「自動車や旅客機にも事故はある」と述べた。沖国大の墜落では在日米軍司令官が「人のいない所に持って行った。素晴らしい功績があった」と操縦士をたたえた。
 今年1月にも在沖米海兵隊政務外交部長が相次ぐ米軍機の事故について「車も故障する」と言った。米軍にとって、墜落事故など想定内の出来事なのかもしれない。しかし地上で暮らす県民はたまったものではない。
 これ以上、米軍駐留によって県民の暮らしと命が危険にさらされ、脅かされることは許されない。B52墜落から50年を機に、日米両政府はそのことを肝に銘じるべきだ。

「戦争が来たぞ」 B52嘉手納墜落50年 事故の恐怖変わらず【黒煙の行方】(琉球新報 2018/11/17)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181117-00000015-ryu-oki
 1968年11月19日午前4時18分、嘉手納に大きな爆発音が響いた。未明の空を大きなキノコ雲が覆う。家屋の窓が割れ、地響きが家々を襲った。「いくさがちょーんど」。眠りに就いていた住民が逃げ惑う。ベトナムへ爆撃に向かうB52戦略爆撃機が米軍嘉手納基地からの離陸に失敗し、墜落していた。B52が搭載した爆弾が爆発し続けた。墜落地点は嘉手納基地内だったが、核兵器や毒ガスを貯蔵していたとされる知花弾薬庫まで数百メートルの場所だった。
<写真>墜落し、炎上するB52戦略爆撃機=1968年11月19日未明、米軍嘉手納基地内
 池原吉孝さん(69)は「ベトナム戦争の報復攻撃が来た」と飛び起きた。爆発音が何度も家屋を震わせた。屋上に上って見えたキノコ雲は核爆弾を連想させた。空から降り注がれる小石や砂。どこへ逃げようか考える気もうせた。「もう終わった」。立ちすくむほかなかった。
 吉田定信さん(83)も自宅屋上から同じキノコ雲を見た。放射能が降ってくる―。すぐに家族に「家から出るな」と叫んだ。爆発の振動で自宅の欄間にはめられたガラスまでが割れていた。
 軍雇用員だった長嶺由弘さん(81)は避難するため、両親と車に乗り込んだ。爆発音は44年に米軍が那覇を焼き尽くした「10・10空襲」を思い出させた。サイレンや車のクラクションが夜明け前の集落に響く。「那覇へ行くか、山原へ行くか」と右往左往した。常日頃、同僚と「何かあったら怖い」と思っていた事故の発生だった。
 金武村(当時)の保養施設で病気療養中だった津波古米子さん(75)は、ラジオのニュースで事故を知った。嘉手納村屋良(同)に住む母と弟を思い、バスに飛び乗った。事故があった道路は米軍によって封鎖され、遠回りを余儀なくされた。
 自宅は爆風で戸袋が外れ、コンクリートには亀裂が入っていた。庭には黒く焦げた小石や砂が散らばっていた。沖縄戦を体験していた母のカメさんは避難はしなかった。米軍からの砲撃を受ける中、山中を逃げ回った凄惨(せいさん)な記憶がカメさんの脳裏をよぎった。「死ぬなら自宅で」
 津波古さんは現在、屋良で暮らす。自宅の上空は今も米軍機が飛び交う。「B52の飛来も反対だった。自分たちの嘉手納からベトナムの人を殺すために飛び立つのが許せなかった」と半世紀たったいまも語気を強める。「爆音にさらされない普通の生活がしたいだけなのに」 
   ◇    ◇
 1968年11月19日、B52戦略爆撃機が墜落した。事故は住民に戦争を想起させ、基地被害の恐怖と不安を高めた。B52の撤去を求める声は全県に広がり、70年に全機が撤退した。19日で事故から50年。しかし、今なお米軍機の墜落事故は繰り返され、広大な基地を抱える沖縄は、その懸念から抜け出せないでいる。嘉手納基地は居座り続け、負担は当時と変わらぬままだ。

米軍に占領意識 元村議の述懐 撤去決議 今も実現せず【黒煙の行方(上)】(琉球新報 2018/11/18) https://ryukyushimpo.jp/news/entry-835937.html
 B52戦略爆撃機が嘉手納基地内に墜落してから6時間後の1968年11月19日午前10時、嘉手納村議会は緊急の臨時会を開いた。議場は事故に対する強い怒りで満ちていた。
 「戦後最大の恐怖にさらされた。この日は嘉手納村は基地が攻撃されたものとみて、避難態勢まで取るほどの戦争の恐怖をまざまざと味わった」。議会冒頭、現状説明に立った古謝得善村長(当時)は怒りに震える声で抗議した。古謝村長は事故後に現場に向かったが、米軍から立ち入りを禁止されたことや、事故についての説明を求めたが応じてもらえなかったことを報告した。
 議員らは強い口調で事故を相次いで非難した。当時村議だった渡口彦信さん(92)は「今回までたびたび同じような事故が繰り返されているという現状に鑑みて、もう基地撤去以外にはこのような事故を防ぐ以外はない」と決議に基地撤去を求めることを提案した。當山哲男議員(当時)は「全村民が一丸となって抗議行動に立ち上がるべきである」と訴え、基地の即時撤去と村民大会の開催を求めた。
 最終的に起草委員会がまとめた決議案には「米軍当局に対し、腹の底から怒りを込めて厳重に抗議するとともに、人間の不幸の根源であるB52と一切の軍事基地を即時撤去するよう強く求める」と記され、全会一致で可決された。
 村議会はB52が常駐を開始した同年2月にも同機の即時撤去を全会一致で可決していたが、墜落事故後の臨時会では基地の即時撤去にまで踏み込んだ。決議は村民の強い危機感が表れたものだった。渡口さんは「事故に対する強い憤りがあったからだ」と振り返った。
 住民にいや応なく、米軍の都合で嘉手納基地が運用される状況は半世紀たった今も全く変わっていない。F35最新鋭ステルス戦闘機やF22ステルス戦闘機などの外来機が飛来するたびに騒音が激化し、周辺住民を苦しめている。今年4、9月には国連軍地位協定に基づき、豪州などの空軍機も嘉手納基地に飛来した。
 嘉手納町議会は復帰後、500件以上の基地被害に抗議する決議を可決している。今年6月の定例会では5日間だけで、F22の暫定配備やF15の墜落などに抗議する5件の決議を可決した。元村議の渡口さんは米軍による事故がなくならないことについて、こう指摘する。「米国はまだ占領意識が抜けていない。日本政府の弱さが原因だ」

強まる「嘉手納」撤去の声 恐怖 全県に拡大【黒煙の行方(下)】(琉球新報 2018/11/19)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181119-00000006-ryu-oki
  B52が墜落した先にあったのは核兵器や毒ガスが貯蔵されているとされていた知花弾薬庫だった。B52が原子爆弾を搭載できる機体だったこともあり、墜落事故の恐怖は周辺住民だけでなく、全県に広がった。事故後、B52の撤去を求める声は強まった。県民の「祖国復帰」運動は次第に基地の全面撤去を求める「反戦平和復帰」の色を濃くした。
 事故に真っ先に反応したのは嘉手納村民だった。事故当日夜、緊急村民大会が開かれた。事故への怒り、恐怖に震える村民ら5千人(主催者発表8500人)が嘉手納総合グラウンドに集まった。大会中も嘉手納基地からジェット機のエンジン調整音が響いた。
 大会には大学1年生だった山城正助さん(70)の姿もあった。山城さんは那覇で大学の授業を受けていた時に事故を知った。「あのやろう」。嘉手納に住んでいた頃はB52の騒音や悪臭に苦しめられた。「受験勉強どころじゃなかった。いつか嘉手納に落ちるかもしれないとも思っていた」。よみがえる怒りで両手を握りしめた。
 1968年12月7日に発足した「生命を守る県民共闘会議」には幅広い層の139団体が結集した。共闘会議で全軍労の上原康助委員長は沖縄初のゼネストの実施を提案。「B52撤去、原潜寄港阻止、一切の核兵器の撤去」を目標に掲げた。日米政府の圧力や屋良朝苗主席の要請により、ゼネストは回避されたが、69年2月4日にB52の即時撤去などを求める県民集会が開催された。58団体、約3万人が集まった。県民世論の高まりなどを受け、B52は70年10月6日に全機が撤退した。
 日本政府は沖縄の「基地負担の軽減策」として、嘉手納より南の返還計画を進める。嘉手納爆音差止訴訟原告団の新川秀清団長(81)は米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設を挙げて「嘉手納より北は基地の履き捨て場か。危険性は普天間飛行場だけでなく、嘉手納基地も同じだ。周辺に住む者として嘉手納基地の存在を『よし』とできるはずがない。われわれの要求を実現するためには基地の撤去に踏み込まなければならない」と強調する。
 米軍普天間飛行場がなくなっても嘉手納基地があるから抑止力は落ちない―。そうした言説に山城さんは「頭にくる」と声を震わせる。毎日のように米軍機が爆音とともに頭上を飛び交う。「基地が嘉手納にある必要はない。県外でもいいはずだ」と語り、米軍機による騒音も事故の危険もない生活を願った。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
米軍側の方が【現実】見てますね(^。^)y-゜゜゜
神ならぬ人の創りしものは無謬では無いからな。

それに比べて、沖縄製反戦駄々こね我儘幼児及び、
これを庇い立てしている中共・北韓スリーパーセルどもは全力で現実逃避ですね(一笑一笑)
韓国人と仕事して困ったことまとめ
2018/11/20 12:21

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