司法反動が続出する今、「裁判審査会」創設が必要

昨日は、裁判所の危険な傾向を指摘させていただいた。日本という国が三権分立で、司法がいかにも独立していると思っているとしたら、それは真っ赤な間違いだということが、あまり共通認識となっていない。もちろん建前は「独立」だが、権力機構の一部であることは間違いない。昨日も紹介したので恐縮だが、『労働情報』最新号に「整理解雇法理の骨抜きを許すな」のタイトルで書いたJAL不当判決批判の文書にこんな一節がある。

>(日航不当判決)抗議集会に参加して、98年5月28日、国鉄分割民営化における「JR採用差別事件(取消訴訟)」の判決場面を想起した。全国の地労委・中労委で全面救済命令をかちとり、東京地裁におけるこの行政訴訟で、当時の国労をはじめとする原告や弁護団は120%の勝利を確信していた。しかし、結果は労委命令の取消という予想外の全面敗訴であった。
 日本労働運動史における最大争議ともいえるこの1047名の採用差別解雇闘争のきちんとした総括はなしきれていない。しかしはっきりと言えることは、国鉄分割民営化と国労をはじめとする労働組合への攻撃は、「国家的不当労働行為」であり、当時の中曽根首相がめざした「戦後政治の総決算」の一環であったということだ。そして、国家的不当労働行為ゆえの、司法による「政治判決」であった可能性は大きい
 労委命令をめぐる17年間の闘争が最高裁で敗北した後の06年11月20日、中曽根元首相氏はNHKの日曜討論に出演し、「ゼネスト(スト権スト)をやられたときから、国鉄労働組合というのは総評の中心だから、これを崩壊させなきゃいかんと思っていた。それで総理になってから国鉄民営化をやり、(反対した国労を)崩壊できた。それで総評が崩壊し、社会党が崩壊した」と、赤裸々に述べた。


上記に「可能性は大きい」と書いたが、実はある「証言」を得ている。裁判官経験のある高名な弁護士に、JR判決の感想を聞いたところ、「国労が勝てるはずはない。裁判所も国家権力の一機構であることを知らないのですか」と指摘されたのだ。日本の司法に関する様々な書籍はあるが、例えば本多勝一さんの『「裁判官」という情けない職業 これでも裁判所を信頼しますか』には、いかに裁判所が官僚主義によって支配され、時の権力と一体となっているかが詳しく叙述・検証されている。そして不思議に、法曹の世界はお互いをかばい合う。同期の司法修習生は、強固な連携を保ち、まるで東大出身者が共産党から右翼まで助け合っている姿をみるようだ。

「主権在官」との言葉を何度か紹介してきた。明治維新以降、この国を形作ってきた官僚制度と、官僚の皆さんの自信とプライドは、想像を絶するものがあることはよく知られているが、最高裁を頂点とする裁判所の官僚主義も同質であることを指摘しておく。政権交代などは、官僚の皆さんにとっては何ら脅威ではなかった。自らに逆らうものは、田中角栄氏や小沢一郎氏のように、簡単に追い落とすことができるからだ。ある官僚からは、「政治家などは孫悟空だ」と、自らを釈迦に喩え、掌の上に乗せているとの嘯きを聞いたことがある。その意味では、今回の稼働原発ゼロは予想外の展開かもしれないが、それすらも想定内かもしれない。

それよりもある提起をしてみたい。もちろん自分の考えた案ではなく「植草一秀の『知られざる真実』」という有料ブログの2012年1月12日に掲げられた「腐敗する裁判所の弊害除去に裁判審査会創設急務」からのものだ。検察審査会よりも、この日本にとっては、裁判審査会が必要だとの提起だが、「検察審査会制度の実態は巨大な闇のなかにあり、制度是正が求められるが、不当判決を市民目線で弾劾する制度を構築する必要がある。この視点を取り入れて、『裁判審査会』を創設するべきだ。国は最高裁を最終審とする建前を主張するだろうから、市民が力を結集して、市民による『裁判審査会』を本格的に発足させる必要がある」との提起に全面的に賛同したい。他では、この主張をあまり見ていないが、裁判所のこのような現状の中では必要ではないか。それでは植草さんのブログから、この提起に到る前文を紹介する。

>日本では裁判所が法の番人としての機能を果たしていない。三権の分立が確立されておらず、司法権が行政権の支配下に置かれてしまっている。行政権のトップは内閣総理大臣だが、内閣総理大臣が司法権を握るという事態が生じている。
 つまり、裁判所が「法の番人」として機能するのではなく、「権力の番人」として機能する状況が著しく強まっている。
 刑事事件の捜査機関である検察・警察組織は、背後で米国からの強い影響を受けている。日本を支配し続けてきた権力は、戦後一貫して米国と官僚組織と蜜月を続けてきた。これに大資本が加わり、さらに情報統制機関としてのマスメディアが加わり、米官業政電の利権複合体、悪徳ペンタゴンを形成してきた。
 利権複合体を攻勢する五つの存在、すなわち、米国、官僚、大資本、政事屋、マスメディアの五者の関係をより正確に観察するならば、すべての頂点に立っているのは米国である。米国の支配下に官僚、大資本が存在し、この三者に協力する部隊としてマスメディアと政事屋が位置すると言える。
 つまり、「米国を頂点とするピラミッドの構造」が、より正確な表現になると思われる。米官業政電が結託する「悪のピラミッド」と表現することが、実態をより正確に表現するものであると考える。
 行政権力の支配下に司法権を置いたのは明治である。三権分立を強く指向した江藤新平を殺害し、霞が関による日本支配の構造を構築したのが大久保利通である。この系譜を引いて、日本では裁判所が「法の番人」として機能しない状況が生まれている。
 とりわけ、オランダの政治学者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が著した『誰が小沢一郎を殺すのか』(角川書店)が、Character Assassination=人物破壊工作の存在を明示したことにより、政治権力を握る者が司法権を掌握してしまうことの恐ろしさが、より鮮明に理解されるようになった。
 すなわち、時の権力は、権力に対する政治的敵対者に対して、政治的な謀略を仕掛け、これを、警察・検察権力および裁判所権力を持って抹殺することが可能になるとの、メカニズムがはっきりと浮かび上がってきたのだ。
 近年の事案のなかに、この範疇に括られる事案が多数存在していることは、間違いのない事実であると私は思う。
 しかし、これは、民主主義にとっての危機を意味する。民主主義にとっての危機と言うよりも、民主主義の未実現を意味する事象と言わねばならないだろう。
 諸外国でも民主主義・法の支配が確立されていない非近代国家は存在する。権力者が警察権力、司法権力を含む権力を独占して、専制政治を行っている国では、民主化を要求する市民は不当に摘発され、罪を負わされてしまう。
 こうした事態を私たちが観察するときに、正義の行動を示して国家権力によって捕らえられた人々を、「被告」などと呼んだりはしない。
 民主化運動に注力する人々が仮に政府に捉えられ、重罰を科せられても、これらの人物を悪人扱いにはしない。これらの国で裁判所が有罪判決を示しても、直ちに、そのことをもって、有罪判決を受けた人物を悪人視しない。
 つまり、裁判所が示す判断であっても、そもそもその裁判所自体の判断が正当であるとは言えないとき、私たちは、裁判所の判断を絶対視しないのだ。裁判所は有罪の判決を示したが、そもそもおかしいのは裁判所の側であると、普通に判断する。
 残念ながら、このことは日本の外にある後進国、あるいは非民主化国家に限った問題ではないのである。日本自身が、そのような重大な問題を抱えていることに、ようやく、人々が気付き始めた。<以下・略>


自らをえん罪事件の被害者として、精力的に発言を続ける植草さんならではの文章だが、個人的には共鳴する点は多い。問題なのはその「権力」が急速に劣化してきたことだ。今日はもう書けないが、民主主義自体が定着しないトップダウン型システムにとって致命的事態ともいえる。

労働組合という、日本の「権力機構」のひとつが、瓦解の危機にある。かつて運動の主体は現場にもあった。正式な団交とはみなされなくても、国鉄・郵政・電電公社等々、分会のような職場段階で交渉が実施され、職場機関紙も毎日発行され、緊張関係があった。現場に一定の権限と運動があったからこそ、地域共闘も成立しえた。一度壊れたものをつくりなおすことは容易ではないが、いまボトムアップへ取りかからなければ本当に瓦解してしまう。…本論からかなり外れてしまった。早朝、「仏大統領選、オランド氏勝利へ サルコジ氏敗北宣言 17年ぶり社会党大統領」の報道を受け、日本という国の未来に思いを馳せている…。

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